笑うこけし

ヒャーッハッハッハッハ

死んだばあちゃんについて

「おう、帰ったか~?」

 

家に帰るといつもばあちゃんが家にいて僕を迎えてくれます。そのばあちゃんはもう亡くなりました。

僕はおばあちゃん子。両親は共働きで夜しか家にいなかったため、必然的にばあちゃんと一緒にいる時間が多かったからです。今回はそんなばあちゃんについて書きます。

幼稚園・小学生

この頃のばあちゃんは元気でした。近くのコンビニやスーパーによく買い物に行っていたことを覚えています。

送り迎え

幼稚園までは徒歩10分。自転車の後ろに僕を乗せて、幼稚園への送り迎えをしてくれていました。

 

帰り道の途中、僕はお腹を下します。うんこを漏らしそうになった僕は、そのことをばあちゃんに伝え、近くの茂みで用を足すことになりました。

 

当時の僕は、幼かったため、お尻を家族に拭いてもらっていたので、この時もばあちゃんに拭いてもらうこととなります。

 

今思えば、だいぶ迷惑をかけていたなあと思います。これがクソババアという言葉の語源なのでしょう。

 

むしろ、何度かうんこを漏らしたこともありました。寝小便もするし、汚れた服やシーツの洗濯はほとんどばあちゃんです。確かに、子どもだから仕方がないかもしれませんが、めんどくさかったに違いないでしょう。

コーヒー牛乳

この頃のばあちゃんはコーヒー牛乳が好きでした。ほぼ毎日コーヒー牛乳を買ってきて飲んでいたと思います。もちろん僕の分も買ってきてくれていたので、いつも一緒に飲んでいました。

 

自分でインスタントコーヒーを作るときも、ばあちゃんは絶対にブラックではコーヒーを飲みません。大量の砂糖と大量のクリープをぶち込みます。

 

そんなスーパー体に悪そうなコーヒー牛乳を、僕が今も好きなのは、確実にばあちゃんの影響といえるでしょう。

ホットドッグ

僕が小学生の頃、ミニバスケットボールをやっていました。庭にはバスケのリングがあります。バスケ部の練習が休みの時、そこで同じチームの友達と共に、しょっちゅうシュート練習をしていました。

 

僕らがシュート練習をやっているのを見たばあちゃんは、自転車に乗って買い物に出かけます。そして、僕らのために食べ物や飲み物を買ってきてくれるのです。最初の頃は、日によって買ってくるものは、肉まんだったり、フライドチキンだったりさまざまでした。

 

ある日、ホットドッグを食べた友達が言います。

友達「うまい!」

 

その日からでしょうか。ばあちゃんはホットドッグしか買ってこなくなりました。単純というか、そんな可愛い一面もあるばあちゃんです。ホットドッグをみると、今でもばあちゃんを思い出します。

中学生

中学生になり、反抗期に入っていった僕は、時々ばあちゃんと喧嘩をします。とはいえ、相変わらず仲は良かったですし、食べ物もしょっちゅう買ってきてくれてよく食べました。その頃、僕が太る原因を作ったのは完全にばあちゃんです。

片付け

ばあちゃんはとてもきれい好きな人でした。しょっちゅう掃除をします。僕の部屋や姉、兄の部屋も知らないうちにガシガシ片づけるのです。大体、それで物が無くなります。(笑)

 

自分で掃除をするから、勝手に掃除をしないで欲しいことを告げても止まりません。長年の習慣がそうさせるのでしょう。そんな頑固な一面もあるばあちゃんです。そういったことで喧嘩もしました。とはいえ、すぐ仲直りをします。

オロナミンC

ばあちゃんといえばコーヒー牛乳!だったのですが、いつの間にか、ばあちゃんといえばオロナミン!に変わります。友達が家に遊びにくると、大抵オロナミンがでてくるようになりました。そのため、僕の友達は、ばあちゃん=オロナミンのイメージが強いようです。

 

ばあちゃんがいつもいる部屋があるのですが、そこの引き出しを開けるといつもオロナミンが入っているので、飲みたくなったときはそこを開けます。ばあちゃんとオロナミンで乾杯をした記憶が蘇ります。

嫁姑問題

僕が生まれた頃から、母とばあちゃんは仲が悪く、口を聞くことはありませんでした。嫁姑の関係といえば、姑が一方的に強いイメージがありますが、僕の家の場合は違います。

 

ばあちゃんが圧倒的に弱いのです。というのも、ばあちゃんは自己主張が苦手なタイプで、嫌なことがあるとノートに書き留めてストレスを消化するような人でした。

 

僕が生まれる前に、たまたまそのノートを母が読んだらしく、そこから冷戦がはじまったのです。

 

しかしどちらかというとばあちゃんは母に対して多少は友好的で、時おり話しかけます。ですが、母は悪口ノートを許せず、完全に無視をするのでした。しかもばあちゃん側の親戚一同も全無視するほどの勢いです。

 

犬猿の仲となる経緯を知らなかった僕の視点からは、母が一方的にばあちゃんをいじめているように見えます。

 

子供の頃は、2人の関係に気を遣って過ごしていましたが、反抗期に入り、なんで自分が気を遣わなければならないのだろう、と疑問に思い始めました。ばあちゃんが好きだったこともあり、母に対して、ばあちゃんの代わりに喧嘩したこともあります。

高校生

1番ばあちゃんに世話になったのは、高校生の頃でした。1番仲が良かったのもこの頃だと思います。

バイト

バイト禁止の高校に通っていました。でも僕はお金が欲しかったので、ガソリンスタンドで隠れてバイトを開始。僕の両親は真面目タイプなのでバレたら怒られます。

 

そのため、ガソスタの時はばあちゃんにだけ話したのです。すると、仕事着の洗濯など、バレないようにやってくれました。誰が正しいとかは関係なく、単純に助けてくれたことに感謝しています。

電子レンジ

ばあちゃんは直接に文句を言えない性格なので、なにかあるとすぐに母のせいにします。例えば、自分の茶碗がなくなると「おっか(母のこと)の仕業だべ」というように悪口を言うのです。大抵の場合は、自分でどこかにしまい忘れただけなのですが(笑)

 

また、家のガスコンロの火を消し忘れてしまうことが多いので、火事を防ぐためにIHに変えた時も使い方が覚えられず、「おらに料理させないために変えたんだ」などと被害妄想のようなことを言う一面もあります。

 

その後、今度は電子レンジが壊れたので買い換えました。

 

ある時、コンビニ弁当を買ってきて、一緒に食べることになります。ばあちゃんが「電子レンジで温めるか?」と聞いてきたので、「うん」と答えると、ばあちゃんはキッチンへ弁当を温めにいきました。

 

時間が経ち、弁当を持ってきてくれたのですが、全く温まっていません。ばあちゃんが言うには、「おらに温かい弁当を食べさせないために、おっか(母のこと)が電子レンジに細工したに違いない」とのことです。

 

さすがにそんなわけないと思いましたが、ばあちゃんと共に電子レンジに向かいます。そこでばあちゃんに温める動作をやってもらいました。

 

ばあちゃんはレンジに弁当を入れてボタンを押します。確かに作動しません。ばあちゃんは「ほらね」と言わんばかりの憤怒の表情です。

 

僕は、本当にそんな嫌がらせをしたのかと母を疑いました。なんてひどい人なんだと思ったのです。

 

しかし、よくみてみると、ばあちゃんは電子レンジの「スタート」ボタンではなく「取り消し」ボタンを連打していたのでした。

 

そんな抜けたところがあるばあちゃんなのでした。

大学生

車の免許を取得した僕の行動範囲は大幅に広がりました。それに反比例するかのように、ばあちゃんは自分で買い物に行くことが少なくなり行動範囲は狭くなっていきます。

スーパーで買い物

車を運転できるようになった僕は、ばあちゃんを助手席に乗せて、スーパーへ買い物に行くようになりました。その頃のばあちゃんは歩くのが大変になってきたからです。

 

相変わらず買い物は好きなようで、スーパーに着くと、買い物カゴの中にガシガシと欲しい物を入れていました。もちろんその中にはオロナミンもあります。

 

ばあちゃんと一緒に買い物に行くのは、僕にとって楽しいイベントでした。買い物から帰ってくると、買ってきた弁当を一緒に食べるのです。ばあちゃんは焼肉弁当が好きでした。

 

「もうすぐ90歳になるというのに肉が好きなばあちゃんは長生きするに違いない、100歳までは生きるよね」

 

叔母と良く話をします。結果的に100歳までは生きられませんでした。

笑顔

他県の大学に通うことになった僕は、ばあちゃんと離れて暮らすことになります。春休み、夏休み、冬休みなどに帰省し、ばあちゃんに顔を合わせると、めちゃくちゃニコッとした笑顔で迎えてくれるのです。

 

単純なことですが、とても嬉しかったことを覚えています。ばあちゃんに会いに帰っていたといっても過言ではありません。

 

そして、1人暮らしのアパートに戻るという時には、大量のオロナミンを持たされました。

社会人

身体能力が次第に落ちてきたばあちゃん。いつ死んでもおかしくないような気がして、僕はいたたまれない気持ちになっていました。

就職

僕は福祉施設に就職することにしました。福祉系の仕事に就こうと思ったのは、やはりばあちゃんとの関係性が大きいでしょう。

 

相変わらずばあちゃんとは離れて暮らしていたのですが、ばあちゃんが転んだ、などという連絡が時々家族から入ってくるようになりました。それでも、日課の草むしりや掃除は続けていたようです。長年の習慣には驚かされました。

 

僕はというと、転倒したとかカゼをひいたという連絡が入る度に、焦りを感じたことを覚えています。ばあちゃんとまた暮らしたいと思いました。

 

しばらくして仕事を辞めて、実家に戻ることになります。この時も、あの笑顔で「またよろしく」と握手をしてくれたことを思い出します。

 

そして、僕は地元の特別養護老人ホームで働くことになりました。

身体能力の低下

ばあちゃんの日課だった草むしりや掃除をすることは次第になくなります。食べる量も少なくなり、食べながら寝るような姿も見られるようになっていました。耳もほとんど聞こえず、便失禁もするようになります。

 

幼稚園生の頃、お尻を拭いてもらっていた僕が、今度はばあちゃんのお尻を拭くことになりました。

後悔

言い訳になりますが、この頃の僕は仕事がきつく、自分のことで精一杯で、この頃のばあちゃんとあまり関わりを持つことをしなかったのです。

 

介護の仕事は、食事、入浴、排泄などのお手伝いをするだけではなく、生活に楽しみを持ってもらうということも挙げられます。

 

職場では、生活を楽しんでもらうために、季節ごとにイベントを開いたり、レクリエーションを行ったりしていました。

 

それに対して、この頃のばあちゃんに僕は何もしていませんでした。

 

もし、ばあちゃんが生活を楽しめるように、もっと話しかけたり、ドライブに連れて行ったりしていたら、まだ元気でいられたような気がします。寂しかったに違いありません。それが一番の後悔です。

おわりに

僕はばあちゃんにとてもお世話になりました。自己主張が苦手だけど、頑固で芯が強く、けっこう抜けている部分のあるばあちゃんが大好きでした。

 

今もばあちゃんのお墓には、お茶だけでなく、コーヒー牛乳とオロナミンが供えられています。